気まぐれ日記 06年8月

06年7月はここ

8月1日(火)「獰猛そうな秋田犬も何のその・・・の風さん」
 会社で26年以上も勤めていると、最近は退職する先輩方を見送る機会が増えてきた。
 今夜も、そういった先輩の謝恩会があった。ちょっと表現が難しいが、ビシッとした仕事ぶりで頼りになるエンジニアの方だ。私のような隙だらけのエンジニアとはわけが違う。だから、この先輩の仕事では品質問題が起きない。
 さらに、親分肌で面倒見の良さでも抜きん出ていた。後輩たちの送る言葉の端々に、先輩の人間性が浮かび上がっていた。
 昔の仲間も駆けつけていて、百名を越す謝恩会だったが、非常に家族的でもあった。
 その昔の仲間も、私にとっては大先輩なので、以前にもそうしていたように、自宅までミッシェルで送ることにした。
 「幌を外してオープンカーで走りますか?」と聞くと、
 「いいね」という返事だったので、すぐに準備した。
 夏なのに、夜は過ごしやすい。ほどよい気温で、オープンカーでの走行は楽しい。
 大先輩を自宅近くで降ろして、少し走ったところで、カバンの中の『ラランデの星』を渡すのを忘れたことに気が付いた。
 急いで戻ったが、既に大先輩の姿はない。実は、自宅の正確な位置を私は知らないのだ。
 すぐに家のワイフに電話して、大先輩の自宅の電話番号を聞いたが、知らないと言う。
 「年賀状を出して見てくれ」
 いったんケータイを切って待ったが、ちっとも電話がかかってこない。
 業を煮やした私がかけてみると、どの年賀状にも電話番号が書かれていないという。
 「それなら、住所を読み上げてくれ。104で聞いてみるから」
 104で確認した番号にかけて、大先輩がわざわざ自宅から駆けつけてきた。急いで『ラランデの星』を持って、走り寄ろうとすると、大先輩が叫んだ。
 「危ないから、こっちへ来るな! クルマに乗っていろ!」
 「???」
 見ると、上半身裸の大先輩は、獰猛そうな秋田犬に引きずられるようにしてこちらへ向かってくる。
 (やべえ〜)
 秋田犬が前足をミッシェルのボデーにかけて唸っている間に、何とか『ラランデの星』を手渡すことができた。

8月2日(水)「密度の濃い一日・・・の風さん」
 いつも新刊が出ると、応援してくださる勤務先のトップに本を進呈する(もちろん販売もする)。昨日までに4人の重役に渡している。
 今朝は、まっすぐ本社へ出張だったので、会えそうなトップには『ラランデの星』を渡そうと思っていた。
 何年も前から応援してくれている副社長と専務が打ち合わせをしているのを外で待ちながら、ちゃっかり副社長の秘書に会長を訪問するアポをとってもらった。
 というわけで、今日は、午前中に、会長、副社長、専務に渡すことができた。
 昼に製作所に戻ってからは、濃密な仕事の連続となった。全く息つく間もなかった。その間にも、昔の部下がわざわざ訪ねてきてくれたときは、会議の途中でも席を外して対応した。もちろん、昔の部下は『ラランデの星』を購入に来てくれたのだ。うれしかった。
 夕方、ワイフからケータイにメールが入った。長女が就職試験に合格したからお祝いをしよう、早く帰って来いというのである。「了解」という返信は送れなかった。
 結局、帰宅は10時半過ぎになった。
 お祝いの夕食は冷めており、朝の早い長女は既に就寝している。調理師専門学校に通っている長女は、名古屋マリオットホテルの就職試験に合格したのだ。昨年からバイトもしているし、学校の研修もそこだった。ホテルの朝は早いのである。
 
8月3日(木)「職場でついに正体を明かした後は・・・の風さん」
 今朝も早起きして本社へ直行した。出版社から本社へ送ってもらった『ラランデの星』40冊がほぼ売り切れたので、補充の10冊を自宅から持って行った。午後からは本社で教育もあった。午前中の空いた時間にも製作所と連絡を取り合い、戦略的な行動をとらなければならなかった。特に、顧客の部長との電話交渉は難しい内容で、成功の確率はきわめて低かったが、何とかこちらの考えが伝えられたようで、ホッとした。
 それで疲れてしまったわけでもないだろうが、午後の教育ではうたたねするしかなかった。
 教育が終わってから、急いで製作所に戻った。
 今の業務を担当するようになって2年半が経過したが、これまで自分が小説を書いていることをハッキリと前面に出すことはなかった。それだけ厳しい業務だったからだ。まだ、ヤマ場は去っていないが、そろそろ自分の正体を明らかにしてもいいタイミングだろうと、今夜は、職場でミニ講演会をセットしてもらっていたのだ。タイトルは得意の「エンジニアが書く小説とは」である。新刊が出たことで、それを売ろうという下心もあった。
 ミニ講演会には47名もの部下が集まってくれた。あまり難しい話はしなかったので、ほぼ成功したと思う。
 席に戻って、今夜ぐらいは早く帰ろうと帰り支度をしていたら、外線がかかってきた。受話器を受け取るとき、誰からの電話がはっきり聞き取れなかった。老化と極度の緊張の連続のせいか、昨今は耳が遠い。低い声や早口はさっぱり判読できない。
 外線というと、今日の午前中に本社から顧客の部長に微妙な内容の電話をしている。夕方には、部下がその部長へ、ある書類をメール送信していた。そういった状況があったために、何となくその電話がその顧客の部長からの電話のように聞こえた。しかも、立腹しているのである。憤慨していると言ってもよい。しまった、と思った。
 「申し訳ございません」
 私は冷や汗を流しながら電話応対に今日最後のエネルギーを投入した。
 また、帰宅が10時を過ぎてしまった。疲れていたが、出版社に『ラランデの星』の追加注文ファックスを送ることだけはして寝た。

8月4日(金)「超超超多忙の日々は続く・・・の風さん」
 今日も密度の高い一日が始まった。
 職場の労務管理の件で責任者である私が追及される打ち合わせがあった。何の話かというと、残業の管理のことだ。マネジメントの甘い私は、製作所の総務や労働組合からしょっちゅう小言を頂戴する。
 昼過ぎまで次々に難しい会議が発生し、冷静にそれらに対応しながら、昨夜の問題にも対処しなければならなかった。
 しかし、幸いにもと言うか、間抜けにもと言うか、私が顧客の部長だと思って話していた電話の相手が、実は、全く別の人間であり、相手も変だなとは思いつつ、適当に相槌を打ちながら電話していたのだという。つまり、顧客の部長は立腹などしていなかったのだ。やれやれ。
 午後一番から、また重要な会議があった。某社の人と会って、難しい相談をしたのだ。
 それが終わったのが4時前で、既に次の会議が近くで始まっていたが、へとへとの私は「パス」させてもらった。
 それからいそいそと準備をして、本社へ向かった。
 帰りに、某所へ寄って、『ラランデの星』の委託販売を頼んできた。夜は、延び延びにしていた床屋へ行き、居眠りしながら読書し、帰りがけにマスター(主人)に『ラランデの星』を売りつけたので、その分だけ床屋代が安くなった(笑)。
 今週は随分と走ったので、ミッシェルに給油してから帰宅した。9時を回っていた。
 夕食後、書斎に入ったが、一週間の疲れがどっと出たので、さっさとシャワーを浴びて寝ることにした。

8月5日(土)「三つの親孝行の話・・・の風さん」
 うちが今後の菩提寺に決めているお寺へ、『ラランデの星』を届けに行ってきた。私単独の著述は、これが5冊目だから、当然、お寺への寄進というか寄贈も5冊目になる。住職は多趣味で読書家でもあり、進呈するのに張り合いがある。
 亡父とのことなど、作品に込めた想いを語ったら、親孝行の話になった。生前に親孝行ができないのは普通だと言って慰められた。
 さらに、親孝行には3つある、と教えられた。
 一つ目は、親からもらった体(命)を大切にすること。二つ目は、親の名を汚さないこと。最後の三つ目が、ちょっと重かった。つまり、子として立派な行いをして親の名を高めることだという。確かに、この三つ目は一生かけてようやくできることだろう。親の生前に果たすことなど、なかなかできることではない。
 帰りがけに、住職が「ちょっと・・・」と言って、私を呼び止めた。そして、自分の腕にはめている水晶の数珠をはずして、私の左腕にはめてくれた。
 「毎日ご祈祷に使っているものですから、きっとご利益がありますよ」
 無理をしている私の体を気遣ってくれたのだ。
 「ありがとうございます。大切にします」
 感動で声が震えた

8月8日(火)「寝不足は続くよどこまでも・・・の風さん」
 昨夜も就寝が午前2時になってしまった。連日深夜まで家で仕事をしているので、いつ倒れるか分からない。しかし、今日は愛知淑徳大学で大学院生を対象に講義をしなければならない。親しくお付き合いさせていただいているO教授からの依頼で、しっかりやらなければならない。ただ、今回の講義の内容には、必ずしも私の専門ではない寺子屋が入っているので、その勉強が必要だった。
 勉強不足の中、出発しなければならなかったので、電車の中で読もうと、参考書を2冊カバンに入れた。アシュレイ(ノートパソコン)は入っているし、寄贈のための『ラランデの星』が2冊入っているし、大型台風が接近しているために折りたたみ傘も持たなければならなかった。だから、カバンはずしりと重くなった。
 名鉄名古屋駅までの車中で、参考書を1冊読み飛ばした。頭がくらくらしてきた。
 1冊読んだと言っても、カバンが軽くなるわけではない。名鉄バスセンターまで重いカバンをぶらさげながらひたすら歩いた。
 バスはすぐ来た。揺れるバスの中で寝るのは容易ではない。昨年万博があったあたりに愛知淑徳大学はある。・・・と、バスが大学を通り過ぎる。あらら、と思ううちにバス停に着いた。片道34分。竹の山南バス停だ。ゆるやかな上り坂を300メートルくらい歩いて、正門を潜った。カラフルな色使いのキャンパスで、きれいだなあ、と思った。幸い、雨が降ってくる気配はない。日差しも弱い。
 準備室で京都のお菓子「聖」を食べながら歓談していると、横山広美さんがやってきた。小柄で可愛い女性だ。彼女のホームページもあるし、一昨日、初めてメール交換したので、何となく初対面のような気がしない。しかし、正直な話をすると、だいぶ以前から、O教授から「横山さんは・・・」「横山さんと・・・」といったメールをもらっていたのだが、横山さんが女性だと思っていなかった。一昨日、彼女のホームページを見て、初めて横山さんが女性だと知った。まぬけな話だが、本当だ。だって、彼女は原子物理学者なんだもん。
 午前中に長年NHKに勤務していたK教授の講義を拝聴し、昼食後、いよいよ横山さんの講義となった。若い横山さんの流暢な語り口に聞き惚れていたが、まもなく驚きの連続となった。そのすべては紹介しきれないが、少しだけ。彼女の伝えるおとなのメッセージに、とても若いサイエンスライターとは思えない人生の達人を感じた。たとえば。
「人が見えない科学にどれだけの人が興味をもつだろうか」
「生き生きとした現場を伝えないのはもったいない」
「科学は文化の一つ、人の営み、その過程こそが科学」
 物書きの彼女に、私なら少しは何か伝えられるものがあるのではないか、と心中ひそかに期待していたが、この人には何も伝えるものはない、と確信した。
 今日の私の講義で工夫したことがあった。それは、小道具というか、品物を持参したことだ。一関市博物館主催の「和算に挑戦」でもらった参加賞のうちわ(算額の問題が書かれたもの)、算額のレプリカ(これは愛媛県松山市伊佐爾波神社に明治時代、11歳の子供が奉納した算額である)そして、そろばんを使った問題の解法が書いてあり絵が多い和算書『算法稽古寶』(虫食いが多い本物)である。他に、一分銀(4枚で小判1両に値する)のレプリカも持参したが、講義では見せている余裕がなかった。
 5時過ぎに講義が終了し、先生方とバスと地下鉄を乗り継いで栄まで繰り出した。
 洒落た居酒屋に入ると、なぜか学部長が先に到着していた。
 先生は全部で4人。私は冷酒をちびちびやりながら、横山さんもあまり飲まず、それでも9時過ぎまで歓談した。先生方が明るく陽気で、楽しい学部である。横山さんもよく笑う楽しい人だ。持参した『ラランデの星』は、1冊は大学へ寄贈し、1冊は名刺代わりに横山さんへ進呈した。
 外へ出たが、空は晴れている。台風は急カーブしてどこかへ行ったらしい。
 地下鉄と名鉄を乗り継いで帰宅したが、ぶっ倒れそうなぐらい疲労していた。
 それでも、明日のためにやることがわんさとあった。
 今夜も就寝が午前2時近くなってしまった。
 
8月9日(水)「持つべきものはクラスメート・・・の風さん」
 一昨日(7日)、秋田に住む小学校時代のクラスメートから「5日の秋田魁新報に君のことが出てたよ」というメールをもらった。
 「3日の記事の間違いじゃないの?」
 と伝えたが、間違いではなかった。3日の記事は、会社員としての講演に関するものだった(作家であることにも触れていただいたが)。
 秋田高校のクラスメートから郵便物が届き、開封してみたら、秋田魁新報朝刊1面の下にある「北斗星」に私のことが書いてあった。クラスメートが書いてくれたのである。
 中学校時代のクラスメートから、出版祝いにメロンが届いた。これも秋田の名産である。手紙が同封されてあり、5日の「北斗星」を読んだことが書いてあった。彼は警察官をしており、さる所に勤務していたとき、テレビのインタビューを受け、「最近感動した本は?」と聞かれたので、わざわざ官舎から本を持ち出してきて、私の宣伝をしてくれたそうである。

8月10日(木)「WEBに出た書評3つを紹介の巻」
 昨今はWEBに出る書評が早い。トップページにも紹介するが、出版後半月で出たWEB書評3つを、今夜、まとめて新人物往来社の編集長へファックスした。
 第一は、レビュージャパンに出た書評である。レビュアーの蓮見暢生さんいわく「人生を考えさせる力作」とあった。
 第二は、オンライン書店bk−1に出た書評である。レビュアーのろこのすけさんいわく「命のこときれる寸前まで仕事に打ち込んだ男の物語に深い感動を持って最後のページを閉じた」とある。
 第三は、「海坂書房時代小説倶楽部」に出た書評である。レビュアーの雨宮由希夫さんいわく「歴史と向き合い、歴史に語りかける作家の豊潤な構想力のもとにつづられた歴史小説」とある。
 原稿が本になって出版されてしまった以上、もはや作者の入り込む余地はない。読者の評価にゆだねるしかないのだ。
 いずれにしても過分の評価をいただき恐縮しつつ感謝している。

8月11日(金)「夏期連休に倒れ込んだ風さんの巻」
 明日から会社は夏期連休に入る。何とか、今日は早く帰って明日からの作家活動に弾みをつけたい。
 昨夜も遅かったが、本社出張なので早起きし、有料道路をミッシェルでぶっ飛ばして出社。午前中に3つ、午後2つの会議をこなした。そう書くと単純な会議のように見えるかもしれないが、役員の出た会議では思う存分自己主張したので、気分がスカッとした。これだけのことが言えるのは、怖いもの知らずだからだろう(笑)。
 5つの会議で1日が終わるほど、自動車産業を支えている世界は甘くない。
 だんだん太陽が沈んできてはいるが、そこからミッシェルで製作所へ移動。
 さらに2つの会議と、部下の発表指導を終えて、自分の席に着いたのが9時過ぎだ。パソコンで緊急アイテムだけ処理をしてさっさと帰ろうと思ったが、どうにもパソコンの動作が重い。
 私はパソコンの起動に時間がかかるのが待ち切れないので、いつも「スタンバイ」状態にしてある。それが、どうやら限界になっているようだ。タスクマネジャーを立ち上げ、バックグラウンドで動作しているソフトをチェックすると、同じソフトがいくつも動いている。それらを一つずつ消していき、最後に再起動をかけたのだが、これだけでもえらい手間だった。
 結局、退社時刻は午後11時になってしまった。帰宅して、ご飯食べて、シャワー浴びたら、もうぶっ倒れるしかなかった。

8月12日(土)「ひたすら睡眠をとってはみたものの・・・の風さん」
 正午近くまで寝ていた。それでもたまっていた疲労がとれた気がしない。
 結局、今日は、秋田で世話になった方々5人へのお礼のハガキと、『ラランデの星』の書評を書いてもらうために某出版機関へゆうパックを2通送った。その間に、ずっと読みかけだった『黒部の太陽』をようやく読み終えた。中学時代に劇場で観た映画「黒部の太陽」を、もう一度観たい。そして、三船敏郎や石原裕次郎の映画にかけた男のロマンの結晶を、再び実感したい。

8月13日(日)「今日も手紙書き・・・の風さん」
 今日は、昨日よりも早い10時に起きた(自慢できないか)。
 午前中は、ワイフの手伝いで、ガソリンの給油と買い物。
 午後からは、昨日に続いて、『ラランデの星』を送ってある文芸評論家の方3人へ残暑見舞いを出した。また、書評につながりそうな某大学の先生へゆうパックを送る準備をした。
 雑務ではあるが、新鷹会のお手伝いである「大衆文芸」の原稿集めのフォローとして、電子メールとファックスと往復ハガキを送った。
 夕方からは、お盆ということで、菩提寺の墓を家族で訪れ、花を換え、線香を上げた。亡き父は、いつも家族団らんのダイニングテーブル近くの祭壇にいるので(少なくとも私はそう信じているので)、特別な感情はない。
 それから私は、今年2回目になる筋トレに出かけた。疲れたが、気持ちいい疲労感だ。

8月14日(月)「明治村・・・の風さん」
 無料の入場券の期限が迫っていたので、ワイフと博物館明治村へ行ってきた。もう何回目になるのか分からない。何度行ってもこういったタイムスリップしたような経験ができる場所は好きだ。
 しかし、今日は暑かった。
 暑さでは、先日の大阪でたっぷり経験していたが、その経験もあまり役には立たない。暑いものはとにかく暑いのだ。
 それでも、暑さに負けないためには、ひたすら食べて、飲んで、汗をかくことだ。この順番が大事で、逆だとばてる。
 約5時間で、全体の8割近くを完全制覇した。・・・つまり、もう足が痛くて我慢ならず、帰ることにした。
 夕方4時を過ぎたころから、浴衣姿の女性客が異常に増えてきた。着物を着ていると入場料が無料なので、散歩ついでにやってくるのだ。しかも、夜になると花火とかイベントが楽しめる。餌につられている感はあるが、そして流行もあるだろうが、日本に着物文化が戻ってきたのは好ましいことだ。
 帰宅して装着してあった万歩計を外してみると、13742歩であった。まずまずか。
 シャワーを浴びて、ビールを飲みながら夕食のピザを食べたが、足が痛くてかなわない。横になったが、特に足の裏がほてっていて寝ることもできない。とうとう氷で冷やす作戦に出たら、気分がスーッとしてきて、それから、また雑務を再開した。
 まだまだ目の前にある仕事の山は簡単には崩せない。

8月15日(火)「平岩弓枝先生に叱られた・・・の風さん」
 東京へ行ってきた。
 8時48分発の名鉄急行に乗車して、名古屋からは「のぞみ」。持参したパンで軽く昼食。東京駅から中央線の快速で新宿へ。ずいぶんと歩いて大江戸線に乗り換えて終点の「光が丘」を下車したのが12時28分だ。ここまで3時間40分もかかった。
 日大附属病院に入院中の野村敏雄先生を見舞った。事前の情報通り、先生は病室でパソコンに向かって執筆中だった。80歳で、肺がんと戦っておられるのに、この作家魂は見習わなければならない。
 ご高齢ということもあり、手術はせず、抗がん剤で治療中だった。幸い、副作用の苦しみは今のところなく、外出禁止ながら仕事が病室でできている。
 『ラランデの星』の著者オリジナル登場人物一覧と栞(しおり)、見舞いの品を渡して、10分ほどの滞在でお暇した。
 1時8分「光が丘」発の大江戸線で新宿まで出て、小田急線に乗り換え、1時48分に代々木八幡に着いた。
 勉強会では、持参した『ラランデの星』を5冊売り、久しぶりに出席された平岩弓枝先生に1冊お渡しした・・・ら、いきなり叱られた。
 「送ってくれるって言うから待っていたのに、遅いじゃないの!」
 「すみません」
 正直に言うと、事前に読まれていて、今日、手厳しい批評を受けてしまうと、19日の東大での講演に支障が出るので、それを避けたのだ。しかし、そんな甘ったれた言い訳は許されない。
 「すみません」
 謝るしかなかった。
 勉強会では、平岩先生が作家生活50年の重みのある指導をしてくださった。感動したし、他人の作品の批評でも冷や汗が出た。
 勉強会後は、2次会にも行かず、失礼した。池袋演芸場で神田紅さんがトリをとることも知っていたが、時間的に無理だった。
 東京駅でいったん外へ出て、八重洲ブックセンターへチェックに出かけた。
 『ラランデの星』が平積みで置いてあった。棚には、拙著すべてが並べられていた。3階へ上がって、数学書のコーナーへ行くと、そこには『円周率を計算した男』と『算聖伝』が置いてあった。『円周率を計算した男』は、日本数学会出版賞受賞の帯がついていて、平積みになっていた。
 7時33分発の「のぞみ」に乗車した。お盆休み中だったが、往復とも混雑はなかった。自宅に着いたのは、10時20分である。
 とんぼ返りの上京もけっこう疲れる。

8月18日(金)「駒場講演の準備に集中・・・の風さん」
 3日間で初めての講演の準備をするのは、やはり無理があった。もちろん最初からそんなつもりはなく、だいぶ以前から少しずつ取り組んで、最後の仕上げにもたっぷり時間をとる予定だった。しかし、いつものように、目の前の課題から順にこなしていくと、結局、先のことに前もって時間を割くことができず、とうとうこういう目にあってしまうのだ。
 16日は例によって、資料の整理にあてた。小説を書くときに集めた資料でも、講演のスライドにするときには不足するものがわんさと生じる。おまけに、また『ラランデの星』を送らなければならないところが生じて、その準備もした。
 17日から本格的にスライドの用意を開始した。『ラランデの星』も4箇所へ送付した。15日の疲れはとれたろうと、夕方から筋トレに出かけた。が、ひどい体力不足を感じた。とりあえず、前回と同様にすべてのメニューを負荷を軽くしてこなしたが、疲労感が残った。
 そして、今日は、もう最終日ということで、朝からひたすらスライド作りに精を出した。
 台風10号が近付いていて、空はどんよりと曇っている。明日の天気が心配だった。
 夜になっても作業が続いたが、このままでいくと、21日の広島の準備が、東京から帰ってきてからになりかねない状況になってきたため、夜になって駒場の準備を中断し、広島の下準備をした。
 深夜に入ったが、スペイン出張で講演を聴いてもらうことができない日本数学協会の会長へ、できた段階でのスライドをPDFファイルにして送信した。
 ふらふらでベッドに倒れこんだ。

8月19日(土)「駒場で供養の講演・・・の風さん」
 夕べは午前2時半まで頑張った。起床が6時半だったから、睡眠時間は4時間である。若い頃は、こういうとき、「時間を得した」と思ったものだ。毎日睡眠不足で1年間過ごしたとすると、1年間でその睡眠不足の合計は膨大な時間になるからだ。たとえば、1日1時間の睡眠不足なら1年で365時間つまり約15日間寝ずに働いたことになるわけで、大いに得した気分だった。しかし、今は違う。初老の域に突入している私としては、睡眠不足は寿命を縮めることに等しい。さっきの計算でいけば、約15日死期を早めている・・・。ん? 待てよ。老人はあまり寝ないのが普通のような気もするが・・・。よく分からなくなってきたぞ。
 出発前のわずかな時間にメールチェックすると、日本数学協会の会長から返信があった。出国する関西空港からだった。なぜか英文で、私が送ったPDFファイルは読めないという。とりあえず先生の旅のご無事を祈るメッセージを英文で送った。
 心配された天気は嘘のように晴れて、上天気である。
 ワイフと最寄の駅から出発。夕べ最後まで頑張ったスライドは未完成だった。肝心の訴えたいことがうまく言えないスライドなのである。プリントアウトしたものを眺めながら、どのように改善すればいいかを車中で考えた。たった4時間でも寝たのがよかったのか、とうとう「これだ!」という結論に達した。
 安心した私は、名古屋からの新幹線の中で爆睡状態だった。
 品川で降りて、渋谷へ向かい、今夜のホテルのロビーで兄夫婦と合流できた。
 井の頭線の「駒場東大前」で降りると、真夏のような暑さを感じた。
 兄夫婦に「駒場農学碑」を見せてから、ファカルティハウスのレストランで早目の昼食を摂った。
 会場にも早めに到着すると、日本数学会の副会長がおにぎりを食べながら「冷房の調子が悪いんですよ」と言った。まさか、と思って聞いたが、これが今日の最大の誤算だった。
 講演台にノートパソコンをセットして、今朝考えついた改善をスライドに盛り込んだ。
 次々に知人がやってきた。初めてお目にかかる先生もいたが、皆、親しく話しかけてきてくださった。持参されてきた本や、会場で販売している本にも次々にサインをした。記念写真を撮ったりもした。大忙しで、汗が流れてしようがなかった。
 とうとう講演開始の1時半になった。冷房が全く効かないので、照明をすべて消し、ドアを開放した。
 会場の中央に席をしめたワイフと兄夫婦は、亡父の位牌と遺影を机の上に据えた。
 36枚のスライドで1時間の講演を無事終えた。最後は、若い頃駒場で学んだ亡父のことで締めくくった。煮えたぎるような暑さの中、場内は一瞬静まり返り、一斉に沸き起こった拍手が私の今日の講演の成功を祝福していた。私は、汗だくであった。
 副会長が、「こんな詩的な終わり方をした講演は見たことがない。今度この手を使わせてもらいたい」と言われ、うれしかった。続いて、質問が3件出た。
 すべて終わってからも販売された本へのサインが続いた。おまけに持ってきた著者オリジナル登場人物一覧がなくなってしまったので、名前と住所を書いてもらった。あとで郵送する約束をした。
 お世話になった先生や事務局の方たちにお礼の言葉を伝えて、ようやく会場を後にした。
 今年の講演の中でも、私にとって最も重要なものだった。単なる講演ではなく、父への供養でもあったのだから。そういう意味で、駒場での講演の機会を与えていただいた日本数学協会の会長はじめ諸先生、事務局の方たちに感謝の気持ちで一杯である。
 炎天下の中、家族で駒場野公園を散策し、亡父の思い出を語り合った。
 夜は、家族で横浜中華街まで足を伸ばし、たらふく食べた。
 ホテルに帰ってからも充実感で一杯の私は、ワイフを連れ出して、ホテルのバーでカクテルグラスを傾けながら、とりとめのない話を続けた。

8月20日(日)「八重洲ブックセンター・・・の風さん」
 寝坊の夫婦なのでゆっくりと起床。窓の外は炎天下の東京だ。やや遅い朝食を摂りに最上階のレストランへ向かった。
 先日の大阪と一緒で、窓際の席に案内された。ロールカーテン越しの日差しが熱い。やや食欲が殺がれたが、食べなければ仕事ができない。夏はとにかく食べることが大切だ。
 東京発の新幹線は余裕をとってあったが、相談して早めに帰ることにした。
 チェックアウトして、渋谷から東京へ行き、新幹線の乗車変更をした。改札口で断って外へ出た。
 せっかくの機会なので、ワイフを八重洲ブックセンターへ案内した。
 日曜日のせいだろう。こんなに客のいない八重洲ブックセンターは初めて見た。1階の歴史小説コーナーへ行くと、『ラランデの星』が平積みで置いてあった。棚の中の本もチェックすると減っている。新刊効果で売れるのだろう。やはり年に1冊は出さないといけないな。
 カウンターを眺めると1階の販売責任者らしい方がおられる。混雑していないのを幸いに、久しぶりに宣伝活動をすることにした。平積みの『ラランデの星』を1冊取り上げて(万引きするわけではありません)、カウンターへ行き、支払いをしながら声をかけた。
 購入した『ラランデの星』にサインをしてプレゼントしたら、慣れているのか、喜んで受け取ってくれた。
 昔の1階の責任者は支店に転勤になっていたが、戻ってきて、今は2階にいるという。
 続けて、ワイフを連れて3階へ行って、数学書コーナーをチェックすると、『算聖伝』がなくなっていて、『円周率を計算した男』も減っていた。ありがたいことだ。
 時間がないので、八重洲ブックセンターを出て大丸百貨店に行った。実は、明日広島で講演なのに、着て行く服がなかった(笑)。夏物はもう片付けられている恐れがあったが、とにかく行ってみた。
 TAKEO KIKUCHI の店があったので入った。夏物は各地のショップの売れ残りを集めたそうで、その中から選ぶことにした。私は、食べるのは遅いが、買い物は早い(なんのこっちゃ)。
 再び改札口を通って構内に入り、ホームへ出てみると、もう乗車する新幹線が来ていた。
 名古屋に着いてから遅い昼食を摂り、それからようやく最後の家路(名鉄電車)についた。
 帰宅してから広島講演の準備で息つく間もなかった。

8月21日(月)「初めての福山訪問・・・の風さん」
 勤務先は今日から連休明けで仕事が始まるが、私は明日まで有休をとってある。
 最寄の駅6時22分発の名鉄特急に乗車した。なにしろ目的地は遠いのだ。
 福山駅に着いたのは9時48分である。そこからタクシーで近畿大学附属福山高校へ向かった。1000円では着かなかった。
 第37回広島県私学教育研修会の会場である。私はその大会の中の数学分科会で講演を依頼されていた。
 体育館には400名を超える先生方が集まっていて、開会式の真っ最中だった。大きな体育館なので、冷房がなく、扇風機が並べられていたが暑い。それでも、男の先生方はネクタイ姿が目立った。私はTAKEO KIKUCHIのポロシャツで、腕にはお寺でもらった数珠をはめていたから少々浮いていた(ま、いいか)。もらった紙袋から中身を出していたら、小さな団扇が出てきた。気が利いている!
 正午まで汗をかきながら基調講演も拝聴した。私学という言葉が何度も出てきて、公立で育った私には新鮮だった。やや迫力に欠く昨今の公立の学校の教育と違って、広島県の私学ではきちっと思想を通した教育をされているようで、日本の将来は明るいように思えた。
 私を選んで招いてくれた先生と合流し、昼食後、分科会の会場となる教室へ向かった。冷房設備があってホッとした。
 分科会は他にも8つくらいあって、それぞれが大学の先生を招いて講演をしてもらっている。小説家を呼んでいる数学分科会は、少し変わっていると言えるかもしれない。
 途中行き交う先生や部活動の生徒が、例外なく元気に「こんにちは!」と声をかけてくるのも好感がもてた。やはり、日本の将来はテレビや新聞の中だけではなく、現場を見て回れば、ちゃんとしているところはちゃんとしているのだ。
 愛知淑徳大学で講演したときに、小道具を持参したことが好評だったので、今回もしっかり持ってきた。さらに、前回は学生が対象だったが今回は先生方なので、スライドの中に小野友五郎の話を盛り込んだ。この話もレベルが高い。
 私を呼んでくださった先生は、若い頃から教育というものを真剣に考えておられ、そのために随分自費で教育研究活動に参加しておられたそうだ。また、人生経験豊かということもあろう。小説に対する理解が深く、私の作品を、単に数学を題材にしていて面白いというのではなく、小説としての醍醐味をしっかりとらえておられ、作者としては、こういう読者がいるから書きたくなる、という気分になる。本当に、うれしいしありがたいことだ。
 午後から、いただいた2時間を使って、和算の紹介、江戸時代の寺子屋での学び、小野友五郎の話、和算小説の面白さを語った。若い先生が多かったせいか、遠慮されていたこともあろう、質問もすぐには出ず、反応はすぐには分からなかった。
 私の後、地元の先生が和算を教材にして授業をしているという事例発表をされた。かなり和算についての造詣が深いように思えた。持参された『新編塵劫記』は先輩の先生から譲られたものだそうで、本物だった。
 その後、バスでホテルへ移動し、チェックイン後、懇親会となった。広島市からやってきている先生が多いのだが、翌日のことも考えると宿泊される方が多く、大勢の先生が3台のバスで移動した。
 ところで、ホテルの部屋からは福山駅と福山城が真正面に見えて、なかなかの景観だった。

 懇親会では呼んでくれた先生の勤務する学校の先生方が中心で、楽しく私は小説の話をし、記念写真を撮ったりした。
 懇親会後、フロントでLANケーブルを借り、自室でメールチェックを存分にやらせてもらった。こんなにゆっくりメールチェックできたのは久しぶりだ。これまでは、常に何かの準備をしながら、その合間合間のメールチェックだった。まして、気まぐれ日記の更新などほとんどできなかった。

8月22日(火)「セパタクローからリトルボーイへ・・・の風さん」
 数学分科会の2日目は工作で始まった。
 今年初めに参加させてもらった愛知県の西三数学サークルもそうだったが、幾何学図形の工作や知恵の輪作りなど、数学教育と工作は本来必要な組み合わせなのだ。ゆとり教育が叫ばれて、ひたすら短い時間に教え込もうとすると、こういった体験学習がおそろかになる。詰め込み教育だけなら学習塾と何ら変わりはないし、びしばし教え込む学習塾やカリスマ教師に、普通の学校が太刀打ちできるわけがない。ゆとり教育を叫ぶのなら、もっともっと時間をたっぷりかけて、こういった体験型の学習にするべきだ。そうすれば、子供たちの数学離れ、理科系離れは減るのではないだろうか。
 演説はそのくらいにして、と。
 昨日、和算を教材にした授業の紹介をしてくれた先生が、拙著をたくさん持って来られ、「サインしてください」と言われた。新刊の『ラランデの星』以外はすべて読んでくれていたのである。うれしかった。
 私を呼んでくれた先生が、荷造り用の紐を使った「セパタクロー用のボール」の工作を指導してくれた。セパタクローは足でやるバレーボールのようなものだ。6本の紐を編んで、紐が交差したところに正5角形の穴が12個できる。つまり中が空洞のサッカーボールを作るのである。
 私は10時半で失礼する予定にしていたので、焦りに焦りまくっていたが、何とかそれらしいものができた。

 できるとすぐ、皆にお別れの挨拶をして、呼んであったタクシーに飛び乗った。
 福山から新幹線で広島へ向かった。福山が初めてなら、広島も初めてである。8月に広島へ来て、平和公園にお参りし、原爆資料館を見学しないというのは日本人として失格だろう。
 幸い、案内してくださる地元の方がみえたので、約束の時間に間に合うように急いだのである。
 広島駅で合流し、近くのレストランでお好み焼きで昼食にした後(どうもこれでは観光客と変わりないな)、タクシーで平和公園へ向かった。すると、出発してすぐ雨がぱらつき出した。
 「東京ではよく降られるんですよ、特に傘を持っていないときに・・・」
 「今どき雨に降られるのは珍しいのですけどねえ」
 大事なときに東京雨男が広島雨男になっている。
 記念碑をパスして、原爆資料館へ直行した。
 50円という入館料に、運営管理者の思いを感じた。
 悲惨な状況だったことを示す展示が多い中に、ボロボロに焦げた女学生の夏服があり、内館牧子さんの『リトルボーイ・リトルガール』を思い出した。

 ふと呟くと、
 「これがそのモデルなんですよ」
 と、教えられた。近くに吊り下げてあったリトルボーイ(原子爆弾)の不細工な図体に、思わず嫌悪感を覚えた。
 戦後61年。はるか昔のような気がしていたが、今でも原爆症で苦しむ人がおられる。原爆はまだまだ過去のことにはなり得ない。
 雨が上がった平和公園を歩いた。
 折鶴の塔の鐘の音が耳を聾するほど響いた。平和への願いの叫びだ。
 原爆ドームの威容は、犠牲者の無言の声を永久に訴え続けるに違いない。
 再びタクシーで広島駅へ戻り、ようやく帰途についた。
 この帰途は、しばらく続いていた講演の旅の帰途でもあった。
 帰宅したのは、午後8時過ぎである。

8月23日(水)「チビクロと金太郎・・・の風さん」
 昨夜、帰宅してから咸臨丸子孫の会の事務局と電話連絡し、秋の旅行会が延期になったことを知った。これで、私のミニ講演の企画も暫時保留となったわけだが、父の急死で取りやめになった講演である。何とか、近いうちに実現し、これも供養としたい。
 今日から会社生活に復帰である。たまっていた仕事が多く、帰宅も遅くなった。
 既に10日になるのだが、実は、我が家のペットが増えた。
 金魚である。長女が花火大会か何かに行ったときに金魚すくいで手に入れた。立派な水槽は残っていたが、浄水装置が壊れていたので、休み中に新品を買ってきた。小さな体で広い水槽は気持ちよさそうである。非常に元気な黒の出目金と普通の金魚である。
 黒は「チビクロ」、赤は「金太郎」とワイフが命名した。雌雄の判別がちゃんとできたのかは不明である。
 チビクロの得意技は水中宙返り、金太郎は特になし。


8月24日(木)「作家の社会生活・・・の風さん」
 子供が保育園に通っている頃、お母さんたちが「母の会」というのを結成し、「一番下の子が高1になったら、どこか旅行に行こう」という約束をしていた。つまり10年後の旅行積み立てを始めたのである。
 それがちょうど今年満期となり、今夜から総勢7人で2泊3日の韓国旅行へ出かけた。出発空港はセントレアである。
 主な目的は、韓国料理、エステ体験、ショッピングである。外交問題が発展しているので、少しは文化的なことも経験してきたら、と思うのだが、ま、これも歴史の一側面かもしれないから、いいか。
 私が会社勤務を今でも続けている話をすると、「二足のわらじは大変ですね」とよく言われる。そのときの、リアクションの定番は、こうである。
 「本業は食えない作家。会社の仕事は趣味です・・・が、趣味と実益を兼ねています」
 二足のわらじと言えるほど釣り合ってはいないのである。
 さらに、こうも付け加える。これは自慢である。
 「それより、地域のこともちゃんとやっています。家内がすべて先行しますが、子供が3人いることもあって、小学校のPTAの役員、中学校のPTAの役員、そして町内会の役員すべて経験してきました。現在は、家内が高校のPTAの役員をやっています。次は私かとハラハラしています」
 何でもそうだが、プロはスペシャリストだ。だが、有名なプロだけがプロなのではない。社会生活を営んでいる人は、皆プロである。プロはプロである前に、ちゃんと社会生活を営むべきである。プロに徹しているからという甘えで、ゴミ出しの日や草取りの日に協力しないというのは傲慢であり不遜だと思う。
 今夜は、会社の帰りにコンビニで自分の夕食として弁当を買い、帰宅の遅い子供のために、駅まで迎えに行った。

8月25日(金)「それでも冥王星は太陽の周りを回っている・・・の風さん」
 一時は惑星の個数が増えるのかと少々とまどっていたら、逆に冥王星が惑星の座から外されて、惑星は1個減って8個になってしまった。天文学を題材にした小説『ラランデの星』を出版した年に、とんだ歴史的事件が起きてしまった。
 小説『ラランデの星』の中で、高橋至時は、かねてより惑星の運動法則を明らかにしたいと考えていた。そこへ最新の西洋天文学を解説しているオランダ語の本と運命的な出会いをすることで、物語は大きく動き出す。惑星の運動法則は難しい。彼がどこまで理解できたか、それを示すことが小説の目的ではないが、現代人でも驚くほどの知識を当時(1803年)の天文学者が持っていたのは事実である。
 冥王星が発見されたのはそれから130年近い後のことである。海王星だって43年後だ。定義がどうのこうの言ったって、発見されたという事実にははかりしれない重さがある。発見とともに冥王星はは天文学の研究アイテムだけでなく、人間の文化と結びついていったのだ。変なたとえだが、自分の子供だと信じていたのに、DNA鑑定で他人の子だったと宣告されたような違和感がある。

8月26日(土)「今度は作家の使命・・・の風さん」
 藤原正彦先生が「日本人にとっての情緒の大切さ」を主張されている。同感である。「繊細な感覚」というものも同じだろう。
 それにしても、昨今の殺人事件には、本当に眉をしかめ首を傾げ不快感と嫌悪感を覚えるものが多い。親の子殺し、子の親殺し。凶悪犯罪の極端な低年齢化。
 私は『ラランデの星』の中で、父と息子の姿を描いた。自分を凡庸だと思い込んでいる息子は、追いつけない父の偉大さだけしか見えておらず、父を人間として理解し始めるのは、父の死後である。そして、あらためて父の跡を継いで、人生の大きな目標へ向かって歩き出すのだ。これって、昔から繰り返されたごく普通の父子関係ではないだろうか。その父と息子の間に、現代で起きているような、血なまぐさいくせに血の濃さや熱さを感じさせない(洒落だな、これじゃ)事件は起きるわけがない。
 小説家の一つの使命をあらためて感じるわけだが、訳の分からない小説家がいることが判明した。どこやらの南の楽天の島に住んでいるらしい立派な賞もとった作家である。生まれたばかりの子猫を毎回崖から投げ捨てて殺しているんだと! それを、こともあろうに原稿料をもらって一般の読者が読むエッセイに書いていたというから驚きである。これまた変なたとえだが、警察官が習い覚えた射撃や武術を使って人を殺しているようなものだ。ペンだって立派な暴力に使えることは古来周知のことではないか。
 
8月27日(日)「新聞に出た書評第一号・・・の風さん」
 サイエンスライターの横山広美さんが、拙著『ラランデの星』の書評を今朝の東京新聞(中日新聞)に書いてくれた。
 作品は作家の手を離れてしまえば、もはや一人で歩いていくしかない。読者一人一人に私の言わんとすることを噛んで含めるように解説するわけにはいかないのだ。作品の評価は、作品の力と読者の感性にゆだねるしかないのだ。
 そういう意味で横山さんは、お若いのに、私の作品の言わんとするところをよく感じ取ってくれたと、ただ感激した。
 248万部の発行部数を誇る同紙である。しかも、私の勤務先の同僚の多くは中日新聞を読んでいるので、この影響力は大きい。

8月28日(月)「超多忙な亭主を尻目に・・・の風さん」
 この週末にも、『ラランデの星』などを3冊送付し、ラランデがらみの手紙を3通、最近長谷川伸の会に入会した人へ勉強会のお誘いをする手紙を4通と、お土産の郵送を1通と出版社へファックスも1通出したので、もうそれだけで、大変な時間がかかってしまい、筋トレを断念しても遅れている執筆がますます遅れていった。
 こうして、日々まるで誰かに脅迫されてでもいるようにあくせくと過ごしている間に、ワイフが2泊3日の韓国旅行から無事に帰ってきた。最大の楽しみはエステだったそうで、朝の9時に入って、終わったのが午後3時ころだったという。次々に勧められるオプションに「OK」サインを出しているうちに、時間も予算も超過して、帰国したときは千円もなかったという、まるで私のような金遣いの荒さを見せた。
 しかし、おかげで肌がつるつるになったらしく、本人は喜んでいた。ま、それもいいだろう。

8月29日(火)−30日(水)「依然として無理しまくる風さんの巻」
 やけに蒸し暑い日だった。またまた無理な行動をしてしまった。
 最寄の駅から電車で名古屋へ出て、待合室で天むすの昼食を摂ってすぐ新幹線に飛び乗った。品川で降りて、構内のコインロッカーへ持参した『ラランデの星』10冊をしまった(つまり、ここまで重い本を持ってきたのだ)。
 渋谷でひと仕事した後、品川へ戻り、本をコインロッカーから出すと、高輪口にあるホテルに向かってチェックインを済ませた。
 とりあえずカバンと上着やネクタイはホテルに置いたが、本だけは持って、歩いて啓祐堂へ向かった。
 3年ぶりに拙著のサイン本を店頭に並べてもらった。ここまでで、もう7時半過ぎである。
 友人を交えて、タクシーで梅芯庵というレストランへ移動して、11時近くまで歓談しながら食事した。冷酒の「来福」も料理も抜群に美味かった。
 疲労と寝不足と重い荷物でフラフラだったが、何とか会社の仕事も作家の仕事もこなせた。
 翌朝は5時半起床。品川6時27分発の新幹線に飛び乗った。これで、本社に定時出社。間に合った〜!
 3人の役員が出る会議に10時半まで出て、何とか目的を達成した(やれやれ)。
 同僚2人と本社を後にして、JR、新幹線、特急を乗り継いで、石川県の小松で降りた。
 タクシーで某社を訪れ、2時から5時近くまで打ち合わせ。これも目的をほぼ果たした。
 5時44分発の特急で帰途につき、自宅にたどり着いたのは、9時過ぎである。
 実は400ページ近い文庫を1冊持ってこの2日間は行動したのだが、移動時間が長かったわりに、車中でダウンしていることが多く、300ページまでしか読めなかった。
 帰宅したら、注文していた本が9冊届いていた。わー、いつ読むんだぁ〜?
 そのとき、電話が鳴った。中日新聞の文化部の方からだった。
 「連載をやりませんか?」
 「・・・」
 小説ではない。が、安請け合いできることではない。年内の準備期間をとりあえず確保させていただいた。頑張らねば。

 8月31日(木)「怒涛の8月の最終日・・・の風さん」
 29日夜の会食でも話題になったが、会社の倫理問題。売り上げと利益だけを目的にする会社に将来はないはずだ。それでも、ときどきビックリするような事件が起きる。先日の某精密計測機メーカーの違法輸出事件には驚いた。しかも一社員が自分の成績を上げるために犯したことではなく、会社トップ含めての組織犯罪だったのだからぶったまげだ。日本は戦争をしない国でなければならない。しかし、外交は難しい。正義の論理を振り回して、イラクへ攻め込んでしまう国もある。かつての罪の追及を外交カードとして使う国もある。もしかすると日本は、開発した技術の軍事目的の輸出を制限することで外交の武器にしているのかもしれない。
 とにかく、目的も手段も正々堂々たるものでなければ、国の運営も会社の運営も失敗するに違いない。
 久しぶりに早目に帰宅できたので、一気に気まぐれ日記を更新した。
 社内での『ラランデの星』の売れ行きが好調である。今日も、製作所で1冊売れた。明日は、本社分を少し補充しておかなければならない。

06年9月はここ

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